《瞬を完する》
目が覚めてから、取りあえず何でもやってみたがることが増えた。
そんなもの業者に任せればとか、そんなこと人に頼めばとか、買って済ませればとか、不覚の人から言われがちなことも「取りあえず」出来そうなものは「一度は」やってみたくなる。
そんなものやそんなことと言った偏見のない、単純な未知への興味と好奇心が増しただけなのかと捉えていたが、何でもしたがる宮司を名乗る“これ”に上が全てGOを出して来た訳ではない。
一時、ビルの窓を一度でいいから拭いてみたい気になっていたのだが、それは全く叶わなかった。
どういう景色が見えるのか、中からは届かない所を綺麗にするって一体どんな感じなのか。
素敵だなぁと随分眩しく見つめたこともあった。
一回でいいから、お金はいらないから。必要なら払ってでも。
と、折り合いが付く所を探っても見たがあれはどうにも、適切な訓練を積んだプロの人が対価を受け取ってするものと、相場か決まっている様である。
取りあえず一度興味に任せてプライベートで行うとなると、もう拭く窓のついたビルから用意しないとならないのかも知れない。
手当たり次第に興味を感じるものに向けて行動を起こし楽しんでいた時期を過ぎると、次第に全体の中でどの様な動きが必要かを感じ取って進むことが出来る様になって来る。
真に必要なら機会は巡って来るものである。
ビルと窓についての可能性は、一旦爽やかに手離した。
只今は上が示すのに沿って植物を育てたり魚をさばいたり、料理に限らず色んなものを作ったり、体を動かす機会が増えたり、未知の分野のことも含め様々調べたりまとめたりしている。
共通するのは、どれも「ひとりで始めてひとりで終える」と言う点である。
先日はふと魚釣りや山菜採り、キャンプ的なものにも意識が向いた。
早急にせいと言う気配は感じないが、これをひとりで完了するとなるとそれなりに支度が要るなと、関連グッズを面白く眺めている。
スナフキンかヒロシ方面にでも上が舵をきろうとしているのかと意識を向けつつ出かけた先で、野山に自生したものを食べてずっと生きている仙人みたいな人の話が舞い込んで来た。
ヒロシどころの騒ぎではない。
と、ビックリしながらそれでもすぐに「ですよね~」と納得していた。
そこまで突飛なものが出なかったとしても、それぞれの上はまともに問えば必要かつ適切な解を示してくれる。
「まともに問う」とは、好みや都合で聞きたい答が決まっていたりせず、誰の損得にも関係ない状態で問う、と言うこと。
そうすれば解は示されるし、そしておそらくそれには多かれ少なかれ「ひとりで始めてひとりで終える」ことが含まれている。
全く何もやって来なかったと言う人は別だが、本道を行くことの必要を感じ少しでも何かしら行動に移して来た人についてはそうなる。
それが只今の流れだからだ。
全体の流れとして、育てることを促されている力について「自活力…でもないしなぁ」と首を捻りつつ、ふと上に問いかけてみて、即座に返って来たのがこの一言だった。
“完結力”
「おっ」となった。
言葉としては聞いたことのない力だが、言われてみりゃその通りなのである。
勿論、葉っぱ一枚たりとも人が無から生じさせることは出来ないので、植物や動物、使う道具やそれを作った人、様々な存在による協力の下に「ひとりで始めてひとりで終える」動きは可能になっている。
そこを取りあげて、「人は一人では生きられない」「人は自然に生かされている」と言ったもっともらしいフレーズを作り使うことを、不覚社会は随分好んで来た。
様々な体験をする為に無形の虚空が沢山の人型生命体としてわざわざ生じたのが物理次元なので、可能不可能と言うより人が一人きりで生きる必要がない。
それだけであるし、自然も自らだし自らも自然なので、生かす側&生かされる側と言った関係にはなっていない。
「ひとりで始めてひとりで終える」ことを十分に味わえるようになると、そうしたことは自然と腑に落ちる。
それは家族に囲まれて生活しながらでも、出来ることである。
不覚社会では多くの人々が信頼を、親愛の含まれるものとして大事にし、信頼の名の下に擦り寄ったり腹を探ったりして引っつき合っている。
表向きの信頼や親愛が水面下で依存となっている可能性に気づき、それについて目を逸らさずに確認する人は少ない。
「ひとりで始めてひとりで終える」ことが十分に出来ている人とは、他者を不要とする人ではない。
独り立ってこそ、愛と感謝で周囲と協力することが出来る。
完結力を育てることは独立や、愛と感謝ある協力の為だけに示されてはいない。
一つの行いを完結させる力が育つと、
同時に瞬間瞬間を完結する力が育つ。
瞬間瞬間の完結は、意識の澄み渡り、理解の深まり、空間の輝き、全力の発揮。
そして弥栄の歓びに直結するのだ。
瞬を完す、無限の歓び。
(2021/7/19)