《生きとし生ける》
オモイカネにまで遡って、「思う」について書くことが続いた。
蝶が蛹から出る様に意識がこれまでの「思う」の枠を出て、虚空に帰還して初めて、真の「思う」は成される。
空に溶けたことを腑に落とした後は、どの様に変化して行っても全体一つである一体感は失われない。
何かに驚くことがあったとしても同時に、何がどう変わろうが虚空と言う“わたし”のすることだからなぁと感じている。
常に中心が静かな分、変化に対する尽きせぬ興味が生まれる。
実に面白く、場の移り変わりを注力して観ている。
一体感無しに彷徨う人々が、不安に駆られ欲求不満となり、世の色々をせわしなくバシャバシャと掻き回す。
それも勿論、全体の一部。
掻き回す動きが次第に激しくなる様子を、静かに眺めている。
“花になく鶯水にすむ蛙の声を聞けば生きとし生けるものいづれか歌を詠まざりける
(梅の花に止まって鳴く鶯や水のある所に棲む蛙の鳴き声を聞くと、この世に生を受けているもの全てで歌を詠まないものなど、一体あるだろうか。)”
古今和歌集の序として書かれた上の文を読んだ時、少々奇妙に感じた。「生きとし生けるもの」自体は別におかしな表現でもないのにと、眺めていて「あ」と気がついた。
「し」を挟んで、生きている全部であるとして強調しているにも関わらず、それらは「もの」の域を出ていない。これが奇妙だったのだ。
ものだけが、生きている訳ではない。
ひょんなことを切っ掛けに先日から、あらゆるものに神を観る八百万の世界観と、共通性を感じるもう一つの世界観を重ねてみている。
二つ合わせて意識を向けていた折、上から“生きとし生ける”と来たことから調べ始めて古今集にちょいと寄り道し、その奇妙さを発見するに至った。
紀貫之の目に世界はこう映っていたのか。
上から来たのは“生きとし生ける”であり、そこに「もの」はついていなかった。
ものだけが生きているキーノの世界観も絵画的で綺麗だが、「人間と、人間がイイねしたもの」を中央に据えて、そこから離れる程曖昧で淡くなって行く。
そこに本気があればそれも又、美だと言えるだろう。
但し平面的であり、部分の域を出ない。
平素の当宮記事は、読むのに分かり易くと受け取ったものをばらして、順序を組み直して書くこともある。
だが、「これは何処も切り様がないし動かし様もない」となれば、そのままを記してみることもある。
以下に続く文は、只伝わって来たことを受け取って記している。全体一つに意識を向けて、お読み頂ければと、真に思う。
生きとし生ける。
物にかぎらず、
者にかぎらず、
有りて在る一切合切が、
生きとし生ける、
場である。
場とは間であり、
空より出ずる。
場に継ぎ目なし。
一切合切は一体であり、
空より生じて、
生きとし生ける。
只、そうであるだけ。
(2022/5/16)