《気の象》
本日は気象記念日。
明治8年6月1日に気象庁の前身である東京気象台において業務を開始したことを記念して、昭和になってから制定されたそうである。
日本初の気象観測所は明治5年8月26日に観測を開始した函館気候測量所なので、そちらの日付を採用してもおかしくないが、気象ではなく「気候」測量所と名付けたからだろうか。
移り変わる気象の結果を1か月、1年と集めてその平均状態について注目した時にそれを気候と呼び、気候に対して気象を用いる時は時々刻々に変化して行く状態に注目した場合であると言う。
そう言えば、気象って「気の象」と書く。
時々刻々に変化して行く、気にかたちがある。
不思議なことである。
気象を大気中に生じる現象の総称と言った意味で使い出したのは明治初年からだそうで、それ以前はどうだったかと言えば、気性と同じ意味で使われていたらしい。
気性とか氏素性とか、目に見えず文字以外の形に出来ない「性」。
性別とか性分とか言う様に、性は別けたり分けたり出来るものみたいである。
気性って何なのかと調べたら気質に近いそうで、両方の気を外してからくっつけたら「性質」になる。
じゃあ質も別けたり分けたり出来るのだろうか。
だが、別室とか分室はあっても、別質とか分質と言うのは聞いたことがない。
試しに別質で調べたら「別室も含めた結果を表示しています」、分質で調べたら「物質ではありませんか?」と出て来た。
本当にない様で、別けたり分けたり出来ないのが質。
そうであるはずなのに気質、そして気性や性分も、「何か特定の色合いを持つ風にイメージが限定されているもの」である様に感じる。
職人気質。
気性が荒い。
損な性分。
どれも、偏っている。
空に固定される雨も雲もなく、霧でも虹でもあらゆる気象は移り変わる。
空は気に入った或る日の光景を留めようとはしない。
大気を操って思い描いた通りの空間を作ろうともしない。
こんな荒れたかたちは嫌だなぁと嘆いたりもしない。
気に象を観ることが出来るのは、観察者と言う役割があるから。
流動するものが一時結ぶかたち。
地において今ありありとそこにあるものも、同じである。
変らぬのは、空のみ。
(2023/6/1)