《本は豊か》
前回記事の最後に「まずは、そこから」と書いた。
多くの分割意識は目覚めるか目覚めぬかの分岐点にある。
そこから成長して伴侶である御神体の状態に追いつき、変容と言う夫婦和合をして全母たる虚空の分神として活動する。
その道程一歩一歩が本来歓びなのだが、どう言う訳だか「何もかもが大丈夫になる楽園」を目を瞑ったままの意識は夢に見がち。
夢想した楽園に辿り着くまでの辛く険しい道として、今の一歩の質を歪める。
「まだ着かないのぉ~!」
もう疲れたぁ。抱っこ~!
と、文句を言っても、要求に応じて夢想楽園が提供されたりする訳ではない。
何もない状態で、何もかも満ち足りている虚空。
その虚空が、物理次元と言う見える状態のものを生んだのはひとえに、
新体験をする
これを意志したからである。
何もかもが大丈夫になる楽園を作りたかったからではない。
そもそも、何もかもが大丈夫風な状況になっても
「退屈だ~、暇だ~」
「刺激欲しい~。何かひと騒動起こらないかな」
等、楽園に猛獣を放ちたがる矛盾した欲望を持つのがエゴ。
だから楽園の実現は叶わない。
叶えたいことを期待して叶わないまま嘆きたいと言う、何とも不思議な注文で不覚社会はきりきり舞いしている。
新体験と言う言葉を一文字ずつに区切り、改めて観察すると、
新・体・験
つまり何はともあれ、体がなければ始まらないと分かる。
体は、體を簡略化した字体と言われている。
骨が豊かに、つまり本来の自然な状態で順に並び、連携している状態。
それが、人に本と言う字の組み合わせで表される。
体には、「人の本来」や「人の本道」が示されている。
実に見事なものである。
そして體と体を並べてそれぞれの右側を眺めた時、「本は豊か」であることが浮かび上がって来る。
本来豊かであるのに、足りない所を埋めようとする。
本来豊かであるのに、至らない所を埋めようとする。
気力体力知力財力魅力etc。
世で様々に力とされるものを自身のであれ他者のであれ、よいしょとスコップで掘り上げて、足らない至らないと不足に感じる所を埋める。
すると、掘った所には穴が空く。
その穴をまた誰かが何かで埋めようとする。
人類はずっとこのほっくり返しゲームを続けて、あれこれやって来た。
だからこそ出来た体験が無数にあり、本当に感謝だがそれで遊ぶ時期ももう過ぎた。
「掘って埋めてしなくても、本から豊かだった!」
そう気づくことで、体も本来の豊かさを現わすことが出来る様になる。
体現にも、体が必要。
(2023/5/29)
5月のふろくはお休みし6月以降のいずれかに、合わせてご用意致します。