《曲がる角には》
老を祝うにあたりまずは字の成り立ちを確認してみて、二つの説を見つけた。
一つは、老人が杖をついている様子を示した象形文字であると言うもの。
もう一つは「耂」で長い髪の老人を表したものに、人間を表す「匕」を合わせた会意文字だとするもの。
意味としては「老いる・老ける」「経験のある」「物事を知っている」等がある。
人間プラス長髪と言うのは面白いかたちだが、髪も髭も伸びるにまかせてそのまんまな仙人の様な感じだろうか。
長い髪と言う点からこのかたちを「年老いた女」と限定する解説もあった。
そうなると男だけ常若なのかとなるが、実際そうはなっていないのでおかしなことである。
それとも、男性性を担当する分割意識だけが若さを保ち、女性性を担当する御神体は古びたら取り換えると言う、不覚のスタンスが表れ出たものなのだろうか。
不覚状態の分割意識達は「常に青春!」と若を気取っても、幼に留まっている状態。
ではあるが、それだってやってみたかったんだなぁと、頷いた。
老を祝おうと意識して初めて、人類の歴史において老が果たして来た役割、その意味を理解することが出来た。
左があるから右が分かり、上があるから下が、東があるから西、南があるから北が、それぞれ分かる様に、
老があるから、若が分かる。
生があるから、死が分かる。
そして、逆もまた真なり。
尤も、目に見える出来事としての生と死しか、未だ世人の多くは理解していない。
生死は点滅であり同じものの変化であることを、腑に落とす旅の途中である。
人類の成したことを振り返って観察してみれば、老いると言う状態変化の力を借りて果たせたことがどれ程多いか。
お肌の曲がり角やら腰の曲がり具合やら。
曲がって曲がって曲がって曲がる角には元の地点。
不覚全盛時代に人類はそうやって数え切れない程のグルグルを楽しんで来たのだ。
そのことと、それを叶えて来た元である虚空にしみじみと感謝した。
これから色々な意味で、気楽に老いることが難しい時代となる。
令和の若年層にはまだ「こんな世界に誰がした」「長生きなんてしたくない」となる、嘆き捨て鉢派みたいな風潮もあるが、人は何でも飽きる。
嘆くことに時間を使うなんて愚かなことだと、現実的行動重視の流れが生まれる。
より意味ある時間、価値ある時間を過ごしましょうとなり、一昔前に流行った押し出しが強く偏ったポジティブとは違うスマートさで生き始めるのだ。
それでもまだ虚空に意識が還る道の途中だが、一つ面白い変化であると言えるだろう。
To be or not to beとハムレットは言ってたが、今後の二択は成熟か衰退かになる。
知力、体力、柔軟性、受容性、積極性。
こうした様々な力や性質の基盤、土台となるのが人が身体と呼ぶ御神体である。
身体を、変容の時代における初期段階では特に脳を、如何にスムーズに機能させるか。
その点に、これまでになく人々は強い関心を向ける様になる。
まだちょっと特別扱い。
意識にまだ老いへの恐怖や憎悪が挟まっている内は、抵抗の逆走頑張り大会の域を出ないが、まずはスタートと言った所。
そうした運びを楽しく、興味深く、そして面白く観察して行けることにも感謝している。
老に意識を向けて祝っていたら、名前に老のついたものを美味しく頂いて祝ってみるのも面白いと浮かんだ。
「まずは海老かなぁ。老酒に漬けた酔蟹もあるなぁ」
旬はまだ少し先なので、この祝いはすぐにはしないが楽しんでみることにする。
空の元、曲がらぬ道を行く。
(2022/9/22)