《成って広がる》
「女の子になってみたい」
「ん?」
(ん?)
何の気なしに出かけた先で、下りのエスカレーターに乗っていた時のこと。
前に立っていた制服姿の男性お二人の片方が冒頭の様に仰り、もうお一人は「ん?」、後ろに居た“これ”もハテナとなり彼らに注目。
女子になってみたいと言った方は、ご友人の「ん?」にこう返した。
「色んな服着られるから、色とかいっぱいあって楽しそう」
このお答えを聞いて、以前にデパートの紳士服売り場を見渡して「色彩、死んだのか?」と首を捻った記憶が蘇った。
仕立てて貰う分にはこの限りではないが、既製品となるとそんな雰囲気が随分続いて来た気がする。
色のバリエーションより質感を重視するとか、モノトーンの方が落ち着くとか、「男なら好みは大体こう!」みたいな認識が固まっていた時代も過ぎ、近年は男性向けの服飾品にも使用する色の数が増えて来た。
だが、まだ物足りないと感じる方もこの様に居るのだ。
ご友人はあ~確かにと相槌を打った上で、こんな風に続けられた。
「それは、性格はそのまま?」
これには少々驚いた。
不覚の人にとっての性格って、やろうとすれば変えられるものだったろうか。
そうであれば性格の不一致で離婚とか、起きない気がするが。
女子になってみたい方は驚きもせずに「あ~、それは今の性格だったら無理かも」と言った風な返答をしていた。
そして性格も性別も変えた上での可能性のお話をしながら、エスカレーターを降りて行かれた。
やっぱり変えられる前提で話している。
性格と性別を変えたら、それこそ不覚社会的には
「それはもう、その人じゃないのでは?」
な状態になるんじゃなかろうか。
だが人によっては「変えてみたらさ」と、可能な感じに緩んで来ているのか。
そこに驚いたのである。
性格やら性別やら諸条件を変更しても、自らと言う意識は消えない。
頭をポカリとやって全ての記憶が飛んでも
「ここは何処、わたしは誰?」
と、ここもわたしもそのままなのに似ている。
「なってみる」には、Aであることに不満な訳ではないがAにはない面白さがありそうだから、なれるならBもやってみたいと言う、やわらかさと軽やかさがある。
そして意識の中で、AとBの間に優劣がない。
「成り上りたい」訳ではないのだ。
上昇下降に縛られずに、可能性をより広く開く。
言って見れば「成り広げ」。
不意に聞こえて来た平らかな「なってみたい」発言が、
人類意識が個々の差はあれど全体としては次第次第に柔軟になっている
とのお知らせであるなら、誠にありがたく、嬉しいことである。
柔軟に、広がる自由。
(2023/1/12)