《愛と加減》
本日記事は、新しき世に起こる諸々の一例として、宮司を名乗る“これ”に起きた変化を含めて、書かせて頂くことにする。
「全体の流れに沿って役に立つ様に、もっと動ける感じに」
分割意識と御神体両方について、そう意志したのが一年程前。
そこから随分と変わって来たものだと、最近改めて感じる機会が増えた。
御神体と言うカミさんが、分割意識と言うダンナの先を行っていることは承知していたが、まず御神体が変わり始め、その変化の仕方で意識を驚かせてくれた。
腕の力も脚の力も増した実感があるのに、何と言うか
ひょろっとしている。
多分ぱっと見は力がありそうには、感じられないのだ。
「え、こんなんなる?」
とビックリしつつ、ふと気がついた。
以前からひょろいなぁと感じていた阿修羅像だが、あれはもしかして、
鍛えに鍛えた結果こう
なのではないだろうか。
そうだとすれば又、味わい深いものがある。
こうした気づきによって浮かぶイメージを意識内でお手玉みたいに放ったりしながら、たまに散歩を楽しむ。
歩きながらふと顔を上げて視界に入った、ラグビーや格闘技でもやっていそうな分厚いボディーの人達が写る看板を、
「みんながみんな、こうなる訳じゃないんだね」
と、眺めたりしている。
当たり前だが、ムキムキになりたいとかそうした注文は特にしていなかったので構やしない。
しかし、力のあり方って色々なのだと感心はした。
不覚時代から割と力持ち気味であった宮司。
動けるようにと意志してこれ以上鍛えられたりなんかしたら、
あらゆるものを握りつぶさないようにそっと触れたり持ったりして、気をつけながら生きて行く
粉砕と隣り合わせ。
そんな感じになるのではと、なるべく力太郎街道とは別を行こうとしていた時期もあった。
だが、こうした加減もおかしなことであると気づいてからは取っ払っている。
なったらなったで、そん時ゃそん時だ。
只愛によって意志し行動すること以外、不要。
愛は愛。それ以上加わりもしないし、減りもしない。
この画像で例えると、浮かんでいるハート一個一個を行動だとすれば、その背景に満ちるピンクが愛である。
これは天意からの愛を説明する時の、愛と天意の状態に通じる。
天意と愛の本質は同じなので、どちらも
これ以上足せないし引けもしない。
愛は本質であり、質なので量ではなく、増減が量れない。
愛によって力が増すことはある。
気力が増し、体力が増し、知力や財力など他の力にもそれは波及する。
だが、愛そのものに加減はないのだ。
だから「愛が足りない!」と嘆いたり、この位の愛が欲しいと期待するのはおかしな話である。
愛が欲しい、とは愛情表現が欲しいと言うことだ。
愛情表現は、愛情であるかの様に感じられる言葉なり行動なり物品なりによる何かしらの目に見える表現であって、愛そのものではない。
愛とは何かを本当に分かった者は、愛が欲しくはならない。
物理次元とは愛そのものであり、その愛は無から生じていることが腑に落ちていれば分かるはずだ。
呼吸し続けていながら「え~ん、酸素欲しいよ~」とはならないことを。
不覚は意識の見ている夢だが、言ってみれば「酸欠の夢」みたいなものである。
覚めてみたら、ずっと生き(息)てる。
(2021/12/6)