《愛し喜ばし》
日を追うごとに、何だか喧嘩祭みたいな雰囲気になって来た不覚社会。
それを観察していた時、ふと以前に読んだ、人々から“仙人”と呼ばれているベトナムの漢方医について書かれたニュース記事のことが意識に蘇った。
その医師は、記事が出た昨年の時点で99歳。
「裕福な人からお金をもらい、貧しい人にそれを分け与えること」を自らの使命として、生活に困っていない人からは診療費を受け取り、そのお金で貧しい人を助ける形で診療所を運営している。
彼自身の健康維持には「毎食茶碗1杯のご飯を食べるのみで、これまでに一度も薬やミルクを飲むような健康状態にはなっていない」らしい。
ミルクでさえ、わざわざ摂る程でもない特別な栄養みたいになっている。
記事の中で、普段していることやこれまでにして来たことについて、何でもない感じで彼は話すがこちらも結構驚きの内容だった。
90歳の時に、山の頂へ桃の木を3本運んで植えてみたり。
以来、毎年1月の満月の日には、山にあるらしい二つの寺院まで1300段以上の階段を歩いて登ってみたり。
「疲れたら休憩し、杖を使ったり、妻子の助けを借りたりすることはありません」と、御本人はあくまで坦々としている。
だが、世間一般の90代には、およそ思いもつかない行動じゃないだろうか。
彼や彼の人生をスイスイと動かし、必要に応じた力を湧き出させるのは、一体何だろうか。
選ばれた人だからだろうか。
運が良い人だからだろうか。
彼の例を滅多にないことにしたがる人々はそう片付けるかも知れないが、記事を読んでそれは単純に“仕事”だろうな、と感じた。
職業としての仕事ではなく、人生で果たそうとする役割、彼が「使命」と呼んだものである。
ご指名に応えた訳ではなく、自由意志で発揮する使命。
これがあるなしで人生はまるで変って来るが、世の人が言う使命には質において大きなばらつきがある。
「これが私の使命!」「ミッション!」「この為に生まれて来た!」、言い方変えたって要は同じ事だが「使命」を、「私」と言う主役を輝かす為の添え物にする人々がいる。
ヒーローとかヒロインとかが変身する時に使う、棒。
そんな感じで使命を振り回し閃かせ、華麗に舞ったり、飛んだり跳ねたり、クールに決めたり、にっこり微笑んだり、ヤンヤカヤンヤカ色々する。
だが、「私」にとって美味しくないと意味がないので、そこが満たされないと燃料切れになったり、暴発したりする。
こうした偽使命とは異なり、真使命は使命と果たす人の関係が対等なのだ。
使命を使おうとせず、使命に使われようとせず、人型生命体と言う命が命を果たすのに必要な役割を使って全力を尽くす。
誰かからの命令ではない“天命”と呼ばれるもので、天意による愛の発揮を促しているのは見えざる虚空である。
天を「目に映るお空」とした、目に見えるもの以外分からない人々の発想で、「とにかく上が偉いのよ」の誤解なんかも出て来たが、見えざる天意に沿って生きることを決めた人々は当たり前に弥栄となり、周囲が稀なることと驚く様な活躍をして来た。
先程の記事の中で最も感じ入ったのがこちら。
“「騒ぐことなく、争うことなく、お金のことも気にしない。貧しい人々を見れば愛しく思い、豊かな人を見れば喜ばしく思う」。この考えこそ、タンさんが健康で長生きしている秘訣だという。”
こう書かれた部分を読み、凄いなと唸った。
愛しく思う。
喜ばしく思う。
この考え。
思考でここまで出来るなら、凄いことである。
ある意味、思考の最高到達点と言えるのじゃないだろうか。
グッドセンスな皆様にはお気づきの通り、愛しい人と喜ばしい人を分ける必要はない。
全母たる虚空から観た人型生命体は欠けることなく皆、愛しく喜ばしい存在である。
だが、貧しい人を愛しく思う人の殆どは、豊かな人を喜ばしく思うことさえしない。
そして、豊かな人を喜ばしいと思う人の殆どは、貧しい人を愛しく思ったりしない。
覚へ至る本道での通過点としてでも、この方の様な「愛し」「喜ばし」で両者を祝福出来る広い見地に、皆様も立たれて見られることの意味は大きい。
「心が」と付けてみるのも、意識の設けた制限を緩める。
心が貧しい人々を見れば愛しく思い、心が豊かな人を見れば喜ばしく思う。
この言葉を一度口に出して味わってから、世に溢れるニュースを眺めてみると、普段と違った感じに見えて来ないだろうか。
愛し喜ばし、変わり行く世界。
(2021/8/5)