《思いに丈?》
“デカルトの「我思う、故に我あり」が浮かび、
「デカルト、“思う”っつったのかな?」
と同時に、
「我って、思うものなのか?」
と二つの問いが発生した。”
と、先日記事に書いた。
この時、宮司を名乗る“これ”は、そう「思った」のではない。
デカルトの言葉の、世に知られた日本語訳が「浮かび」、そこから二つの問いが「発生した」。
個を超えると、不覚社会で言われている「思う」ことが出来なくなる。
個を超えた思いはあるのだが、それについては不覚社会での思うとは何かを理解しないと伝わらないのでここでは書かない。
先に挙げた二つの問いについて、
「でも、結局そう思ったんでしょ?」
と、する人々は、個を超えた意識の動きや、それによるモノコトの運びを感じたことがないのかも知れない。
不覚状態でも、それを感じたりすることはあるので、覚めてないんだから出来る訳ないじゃんとはならない。
先の台詞は「でも、結局そう思ったんでしょ?あなたが」と続けることが出来るだろう。
全一の存在として、人々があなたと呼ぶ所の「わたし」と言う概念を介さずに、意識を向けて浮かぶイメージや生まれる問いを観ている。
「でも、結局そう思ったんでしょ?あなたが」の、「あなた」が居ないのに、何をどう思えると言うのか。
「あなたですよ、そこに居る○○さん」
と、出来る人々は、個として目にすることが可能な存在としてのみ、人型生命体を認識している。
御神体の内に在る意識は無限の虚空と通じており、質においてはその虚空と同じものである。
ここを未だ腑に落としてはいないからこそ出来る、ある意味で離れ業と言える。
難しいかも知れないが、覚める前と覚めた後ではここまで感覚が違うのだと言うことだけでもご理解頂けると、次の問いにも向き合うことが出来る。
「人は何故これ程までに、思うことに夢中なのか?」
お目にかかる機会のある方々に、宮司を名乗る“これ”の意識の動きについて、
「思うことはなく、只浮かんだり生まれたことについて、感じたりしているだけなんです」
等、申し上げたことも幾度かあるのだが、反応はほぼ決まって
「へぇ~」「えぇ~」「そうなんですね~」
と言ったものであり、思うとは何かと自ら興味を感じて掘り下げてみようとした人は、おそらく一人も居ない。
流して、埋めて、忘れ去る。
そして「と、思ったんです」と仰る。
思っちゃいかん訳でもないので特にそれを止めたりはしないが、不思議には感じていた。
それが先程の「人は何故これ程までに、思うことに夢中なのか?」の問いになった。
魅力的だからだろうか?
便利だからだろうか?
染みついた習慣だからだろうか?
これも「○○だからだろうかと、思った」訳ではなく、「様々な可能性を並べて、それらを観察している」だけである。
「思ったことを、別のことに言い換えてる!」と“思うファン”の人々はモヤモヤするかも知れない。
逆なのだ。
人は意識の様々な動きを、「思う」で言い換えている。
この汎用性が、思うに夢中である理由の一つと言える。
手が沢山だし、煙にも巻ける。
思いの丈、と言う言葉がある。意味は、
思うことのありったけ。特に、恋い慕う気持ちのすべて。思いの限り。
これを見て納得したのは、思いには限りがあると言うことだ。
つまり全体の一部である。
思いに丈があると言うことは、今更ながら面白い発見だった。
これを機に、思うについて掘り下げてみることにする。
皆様も、それぞれ内に問うてみて頂きたい。
「人は何故これ程までに、思うことに夢中なのか?」
そして個の感覚で思うことに慣れ親しんでいる方は、出来れば思いの限り、
「わたしは何故これ程までに、思うことに夢中なのか?」
を、問うて見て頂きたい。
きりなき思いの丈くらべ。
(2022/4/11)