《常の道》
常に今であり、過去も未来も今の内。
常世や常盤と言う表現に見られる様に「常」は、不変を示すものとして扱われている。
ずっと。ここに始めや終わりはない。
だから不思議だったのだ。
この字に何故、幅や布を意味する「巾」の字が入っているのかが。
布にもその幅にも、始めも終わりもあることは明らかだ。
時と場が移り変わる中で人々は尋常の幅を、「普通」から「立派」までお好みに応じてカット。
その時々に欲しい表現を作るのに便利に使った。
それなのに常そのものは「ずっと」と言う、途中でカット出来ない意味を持っている。
一体どう言うことなのか。これは常の字の上半分にあたる「尚」が何なのか知ることでようやく腑に落ちた。
調べ始めてすぐに出て来た解説には、尚とは「高い」ことや「長い」ことを意味する字でありその形は、
高い所にある窓を開く様子を漢字にしたもの
であると書かれていた。
高さと長さって兼ねられるのかと謎だったが、そう言えば横にした長いものは、立てれば確かに高いもの。
高得点とか一日の長とか不覚の人は大体の場合、比べてみてより優れている方に高さと長さを感じる。
尚も縁起のいい文字として個人の名づけに使われたり、一人前になったと認められた僧のことを和尚と呼んだりもする。
goodとされることは分かったが、ずっとは良し悪しに関係がない。
したがって「何で布?」の謎はそのままである。
そこで更に調べてみて、尚とは単に高い所にあって開かれている窓ではなく、
北向きの高窓から炊煙が立ち昇ることを表したもの
であると言う解説を見つけた。
炊事の煙は、生活の場所に日々発生するもの。
立ち昇った煙は空へと溶けて消えて行き、その終わりを定めることは出来ない。
ここからここまでと区切れない。
人はその姿に、不変を感じ取ったのではないだろうか。
「常」に不変と言う意味が生じる為に必要な炊煙が省かれて、解説によっては窓とその高さだけ残った。
更には高さを長さや優れている様、立派さに結び付けて、偉くも優れても居ない空に上る炊事の煙から、イメージをどんどん遠く離した。
これも、「モノコトをエゴで歪めてみましょうゲーム」の表われとして興味深い。
戦いの狼煙とは異なり勝敗にも優劣にも関係のない、シンプルないのちの営みとしての炊煙。
この点に並んで「北向きの窓」と言うのも重要なメッセージである。
冬限定での、おはぎの別名に北窓がある。
おはぎは餅と異なり杵で搗かずに作ることから、「搗き入らず」。
そして、北側にある窓は月明かりが入らないので、こちらも「月入らず」。
この2つを掛けて、おはぎを北窓と呼ぶようになったと言われている。
月明りのない北の窓から、暗い空に消えて行く煙。
見えも触れもしない、それでも確かにそこにあるもの。
煙は薪や炭、落ち葉など燃えるものに火が起こされてそこから生じる。
燃料を割って中から火や煙を取り出せはしない。
変化により生じて、やがて消えるもの。
そして終わりも限りもなく、古びないもの。
火も煙も、古くならない。
人はそこにも「常」の不変性を観たのだろう。
変らぬものへ還る道。
(2023/1/26)