《尋の旅》
尋常一様と尋常一式。
殆ど同じ意味を持つこの2つの言葉から、尋常は様式であると気づくことが出来た。
時に応じた様式であるなら、移り変わりに合わせて変化することに不思議はない。
尋常の「尋」について字の成り立ちを調べてみると、漢字の中の彐と口は右手、工は左手を表すと言う。
寸も手の指1本分の幅を表す字とされ、これも手を意味するらしい。
「右・左・え、後、何?」
と、驚いた。
寸の示す手は、左右のどちらになるのだろうか。
ついでにどの指の1本分なのかも知りたかったが、それは書いていなかった。
「ちょっと」を一寸と書いたりする様に、どの指であっても大した違いはないと言うことなんだろうか。
幅と言っても親指と小指では大分違っている気がするが。
その辺フワフワしているし、右・左・指の幅と計3つになる意味も分からないので更に調べると、「⺕(=又)+工」が左、「寸(=又)+口」が右で、左と右を分解して配置したとする解説も出て来た。
そして寸は法度を意味すると言う資料も発見。
法度とは掟や定め、決まり、規則、法規、禁制、禁令、御法度の形で禁止事項等々、要するに「してはいけないこと」を主として作られたルールのことだそうだ。
「手」のみを使って、NG項目を下地にしたとして、それは何処に向かって一体何を尋ねるのだろうか。
足の出番、一切なしに。
そう言えば訪問する方の「訪ねる」にも足の出番はない。
頭や手の行く所には、当然足も付き従うものと言うことなのだろうか。
それとも、
「過去も未来も常に今であり、今でしかない。
だからどんなに手探っても最初っからずっと、何処にも動いちゃいないよ。」
と、言う意味なのだろうか。
だとしたら、誠に味わい深く面白いことである。
尋ねると言うことは当てがある訳で、一体何を当てにしているのかと謎だったが、これについても面白いことが分かった。
尋は長さを計る単位である以外には「探り求める」意味で使われていたもので、尋問などと言った尋ねる意味は後から出て来たのだそうだ。
両腕を広げて段々と計っていく動作から生まれた語で、「前のものの後を継いで段々と進む」のが尋。
尋を深・探・沈・甚などと同源とし、「奥深く入り込む」意味があるとする解説を発見。
ならば、奥へ奥へと段々と進むのが尋の旅。
同じ内容の繰り返しでは進んでいることにはならないので、「前のものの後を継ぐ」とは先の体験に繋げて新体験をすること。
外側に体験を広げると、内側が深くなる。つまり、奥深く入り込む。
この奥底へ向かって進むことからイメージが膨らんだのか、尋を「神を探す」意味に捉えた説もある。
奥にあるのは虚空であり、人の想像する“神なるもの”にも途中で行き会うかも知れないが、
「探してるのは神」
と、何となくイメージした目的地をゴールとするなら尋の旅と銘打っても、内容は娯楽要素の強いパックツアー的なものとなる。
勿論、やりたければそれも自由。
理解や納得を寸止めにして来世に持ち越す遊びはもうとっくに期限切れとなっているので、最終回と分かった上で本気の遊びとしてなさると爽やかに終えれるのじゃないだろうか。
尋常のもう一つ、常についても面白いことが分かったので、木曜記事にて書かせて頂くことにする。
これも又、元を辿る旅になる。
普通の道の奥深さ。
(2023/1/23)