《嘆きと内外》
嘆き責めの起こる背景にある、様々な事情。
先週の記事に続いて今回ご紹介するのが、
事情その2・欲しいものを外に向かって求める癖がある
幼児が解決を要求する時に、「泣く」と言うコミュニケーション手段を使うことがあるが、大人になってもその癖が抜けない人々が居る。
それなりに大きくなってから人前で泣くのは流石に憚られるからか、嘆くと言うアレンジを加えて、外への要求を継続する。
そこには「どうせ自分にはちゃんと解決出来ない」無力感や、「面倒くさいことは全部誰かに代わってやって欲しい」目論見がある。
それを一言で未熟と片付けると、「未だ熟せざるのみで、いずれ熟す」みたいな希望感を残すが、人の意識の成熟は果実の熟すのと違い、知らぬ間に起きる訳ではない。
無力感や目論見を抱えたまま、嘆いて責めると言った小技にエネルギーを費やすばかりな人々の意識の有り様は、未熟より「拒熟」と呼ぶ方が相応しい。
「外に向かって」放つ姿は、嘆と言う字の形にも表れている。
口+堇
口は「くち」で、堇の方は「渇いた」状態を示す。
この組み合わせによって、嘆の「(喉が渇いて)嘆く」と言う意味が表される。
初めの嘆きは、喉の渇きを訴えるもの。
「何故生まれてここに在るのか」と問いが生じ、真実を知りたいと求める“渇き”が生じた時に、内なる虚空へ向かって意識による井戸掘りが進む。
内なる中心から虚空に意識が還る時、井戸からは水が湧き出し、
全体一つに溶けて、何もかも元は空であったと腑に落とす。
すると、彷徨える苦しみや意識の渇きは消え去る。
その状態に向かう必要圧として起きている嘆の動きを、有限世界での欲求解消に転用して、エネルギーを外に放つことを繰り返した果てに、嘆き責める癖がついた。
この癖は、どれだけ嘆いても誰も取ってはくれない。
自らの意志で癖を取ることを決めて、外への嘆きが生じたらそれを中立に観察して愛で溶かして行く他ない。
嘆きを叱って「駄目!」と責めると、嘆きの方は「責められた~!」と張り切って嘆くので、一人SM状態が出来上がる。
そうした珍妙な堂々巡りにエネルギーを費やしても別の、そして更にややこしい癖がつくだけである。
「嘆く」を辞書で引いた時に、「悲嘆にくれる。深く憤ること。」と出て来た。
嘆くを悲嘆で説明?
「パンケーキ」の意味を尋ねて「美味しいパンケーキ」と出て来る様なもので、何じゃこりゃとなったが、気分的に美味しければ別に構わないのだろうか。
深く憤ること、と言う説明には、嘆き悲しむと言った被害者風スタイルの中に隠した、責を糾弾する攻撃性が漏れ出ている。
包んだ様で居て、結局隠せてはいない。
「いきどおり」は元々、息が通ることを求めた動きであり、嘆き同様に本来は内へ向かうはずのエネルギーが外に暴発したものである。
「なげく」も「なが(長)+いき(息)」が縮まったものである「なげき」の動詞形で、古くは溜息をつく意を表す語であったと言う。
驚きのあまり言葉を失う時、驚嘆となる。
感動のあまり言葉を失う時、感嘆となる。
これらは外に向かって何も求めていないし、何も責めていない。
むしろ内外を分けずに、感謝や歓びを発する動きである。
中には、そうした嘆もある。
驚嘆も感嘆も、それとない風を装って空間に漏らす間接的な要求とは、全く異なるものなのだ。
どれだけ外に求めて来たか。
(2022/3/7)