《味と好み》
人は、人と言う“本来は同じなのに形が分かれて居るので他者と見なせる存在”を、敵か味方かに分けたりする。
「分け切れたりしないのに、一応分けてみたがるの不思議だな」
と、「敵味方」と言う文字を腕組みして眺めていた時、味方の「味」の字が目に留まった。
以前にも味については書いたことがあるが、よろしくないと見なしたことについて、人は「マズい」と表現したりする。
それそのものが自分にとってオイシくない存在であり、更に言えば自分にとってのオイシさを減らして来たり、そうする可能性がある存在が敵、と言うことだろうか。
食物の美味しさは素材の質や調理の仕方、それらを支える天意からの愛によって変わって来る。
味方かどうかのオイシさは、状況と対応の仕方で変わり、天意からの愛とは異なるものによって変わっている様に感じる。
愛ではなく好なのか。
味に対しての好みが、敵か味方かの判別に影響するのだろうかと首を捻ったが、好みではない嫌な味でも、味は味。
嫌味な人でもその時その場に必要で、つまり手を組むことで何かしらの旨味があれば、味方として扱われる。
歓迎はされないだろうが。
「一体どう言うこと?」
味方の味って、旨味のことなのかと再び首を捻った。
ミカタとは何か調べてみると、元は「御方」と書いたものが「身方」や「味方」と、字を当てて書かれる様になったそうだ。
御方とは天皇の側。
そこから天皇の軍勢や朝廷の軍隊の意味が生じ、やがて広く一般に「対立する一方の側」の意味で使われる様になったらしい。
「成る程ねぇ、身や味は後付けだった。しかしそれでもやっぱり謎だ」
身方=ミカタなのであれば、身内同士で敵対することを指す「骨肉の争い」や「骨肉相食む」なんて言葉は存在しないのじゃないだろうか。
これが旨さだとして与えたり求めたりする味も、損得勘定による調整があっても、やはりそれぞれの好みによって偏っている。
「俺は君の味方だぞ」
「あなたは私の味方よね」
これらは
「いい味出しますよ」
とか
「旨味出して頂戴よ」
と言っていることになるが、良いお味ってどんな味なのか。
身や味の字を当てる前の「御方」に戻ってみたら何か分かるかと眺めていたら御についても、謎が出て来た。
天皇と言う条件から離れて広がった御。
その御の敵って何だろう?
そして御にも味と同じく、好みが影響するのか。
浮かんだ幾つもの謎から、段々と面白いことが分かって来た。
長くなるのでそれについては来週記事にて書かせて頂く。
気が向かれた方は「自分にとって旨味とは何か」、既にそうした拘りを卒業されている方は「かつて旨味と感じていたものは何だったか」について中立に観察してみて頂くと、続く記事の味わいが増すだろう。
御好みで調味可能?
(2023/4/20)