《合うと争う》
単独で行う本年の母神祭の地として、有名な合戦があったとされる場所にお出かけすることになった宮司。
その手配をしている最中に、ふとこんな問いが浮かんだ。
「そう言えば合戦と戦争って、どう違うのさ?」
「戦争反対!」は聞いたことがあるが、「合戦反対!」と言うのは一度もない。
世間で言われている合戦には、戦であると同時に何だか祭の雰囲気がある。
その為か、古い時代の合戦を現代のイベントに転用して楽しむ動きもある。
戦で争だと反対するのに?
これって一体何故なのか。
2つの違いについて調べてみると、
「合戦」とは勢力争い等で両者が全勢力を集結させて行われた決戦
のことであり、
「戦争」とは主に国と国の武力を用いた争いで合戦よりも規模が大きい
とする解説を発見。
合戦の場合は戦いの参加者が予め決まっており、それ以外の民間人や部外者を巻き込むものではないと言う点が、戦争とは異なるのだそうだ。
武道やスポーツの試合も同じ「合」の字が使われているし、合戦の一種なのだろうか。
スポーツの祭典とか言ったりする様に、やはり合戦的なものには祭の雰囲気が出る。
「両者が全勢力を集結させて」と言う部分が、とても魅力的なのかも知れない。
全力を出し切ることは弥栄であり、互いがあってこそそれが出来たのだと感謝が湧けば、表面上は勝敗が分かれると言う結果であっても、中身はどちらにとっても愛に満ちた新体験となる。
のはずなのだがつい先程、この所行なわれている国対抗のスポーツ合戦にて、勝った方の国民が興奮で暴徒化したと言うニュースを観た。
「勝ったのに?」
負けた腹いせで暴れるのではなく、勝った時にもそうすると言うのは興味深い。
強い興奮は歓喜であれ悲哀であれ、人によっては居ても立ってもいられない気分にさせ、暴れさせるものなのか。
それとも、日頃から溜め込んでいた暴れたい気持ちをどさくさに紛れて発散させたのか。
どちらにしても弥栄とはならず横道にエネルギーが漏れている。
辞書で調べると合戦とは「敵味方が出あって戦うこと。戦い。」であると書いてあり、この表現からは戦争との違いを見て取ることは出来ない。
民間人や部外者を巻き込まないと言っても、現代の合戦風行事と違うリアルな合戦では実際どんな感じだったのかはっきりしない。
民間人も参加したかも知れないし、部外者も流れ弾に当たったりしたかも知れないのだ。
これは以前から、お目にかかる機会のある方にはお話しているし、記事にも書かせて頂いていることだが、残酷な戦争も時間が経つとロマン溢れる合戦扱いになって来たりする。
どの辺りでロマン変換が起こるのかは諸国諸地域により多少の差はあるだろうが、日本の歴史を振り返ると、繰り返してはならない“戦争”は昭和期以降のもので、その前の明治大正辺りからもうロマン化が起きている感じがする。
寝かせると発酵して風味が変わったりするのだろうか。
合戦の持つ意味として辞書には「名詞の下に付いて、激しく争うさまを表す。」ともあった。
普段であれば激しく争うさまをよろしくないものとしがちな人も、歌合戦や雪合戦とかになると話が違って来る。
「歌合戦反対!」と聞いたこともないし、「決勝戦反対!」とも聞いたことはない。
だが、どれもこれも“いくさ”であることには違いない。
戦とも軍とも書くと言うのは既に申し上げたことがあるが、いくさって何なのか。
興味が湧いて調べたら、成程と感心することが分かった。
それについては木曜記事にて書かせて頂くことにする。
合も争もごった混ぜ。
(2022/12/12)