《反復の限界》
人がヤバいと感じて避ける、欲望を持て、と言うプログラム。
ここに意識を向けて、面白いことが分かったと記事にて申し上げた。
何が面白いかと言えば、
そもそも不覚が欲を好み
同所に留まる反復も好む
ものだからである。
つまり、大きな反復をずっと楽しんでいるのに、その中に発生するちっちゃな激しい反復は嫌っている。
こんな変てこなことってあるだろうかと、当初は奇妙なものとしてこの矛盾を眺めた。
そうしているうち次第に、そんなおかしなことをする理由が分かって来た。
それによって、奇妙も面白いへと変わって行ったのである。
人の生についてその始まりから終わりまでの有り様を俯瞰で観ること。
これが自分と信じた端末や、親しみや興味がある“お気に入り”の端末に限らずに、今を生きる様々な端末の人生を俯瞰で観ること。
現代から遡って、歴史の上で知ることが出来る、異なる場所や立場の端末達の人生も俯瞰で観ること。
そうしたことをしない限り、
「新体験が出尽くした後の不覚状態では反復による煮詰まりが起こるだけで、深まったり進んだりする変化はないのだ」
表面に上塗るだけで溶け合わない。
と、認めることは難しい。
認めてそこから腑に落とすことは、更に難しい。
だからこそ逆に、覚めない為には都合が良いのだ。
難しければ難しい程気兼ねなく、
「あぁ~又、駄目だった」
と、幾らでも繰り返せるはず。
不覚の分割意識達は、そんな風に思っているのではないだろうか。
つまり、より難しくすることで不覚ゲームを少しでも長持ちさせようとする動きなのだ。
不覚の大きな反復中に発生するちっちゃな激しい反復を目の当たりにすることは、この難しくして長く持たせる目論見に水を差す。
ちっちゃな激しい反復は、不覚社会が慣れ親しんだノリで普段行っている反復を圧縮して、より激しく不自然にした雛型みたいなものだからだ。
そりゃ見ない振りもするだろうなと気づくと同時に、
「見ない振りが出来ると言うことは見たくない気持ちがあるからで、裏を返せばこの自己矛盾について意識は既に勘付いているのか」
とも、気がついた。
その上で敢えての知らん振り。
既にバラバラに解けつつあるものを、不覚の分割意識達は必死に抱え込もうとしている。
だが、解ける流れは止まらない。
先程書いた、「あぁ~又、駄目だった」と幾らでも繰り返せるはずは不覚の願望であって、実際にはご承知の通り無理なことである。
解けに解ける中で、どうやってぴょんぴょん跳び続けるか。
さて何処まで持つだろうか。
そして止まる時はどんな切っ掛けでそうなるのか。
この度の気づきと発見で、不覚社会観察に面白さや興味深さが増した。
分かり易い反復を見せて下さったちいさな人達にも、無視や無反応を選ぶ姿を見せて下さったおおきな人達にも、とても感謝している。
見ないの果てにあるものは。
(2022/7/28)
7月のふろくはなしとし、8月に2つご用意を致します。