《人助け?》
先日、『人助けランキングで日本が最下位』と言うニュースを眺めていた時のこと。
「そう言えば、“たすける”って不思議な動きだな」
と、気がついた。
そうしたランキングがあることも不思議だったが、
“人は人を助けることが当然と言う前提で、
それが出来ているかのチェックをして、
成績発表みたいにすることで全体がちゃんとする様に導く”
そうした目的で作られているのだろうか。
「たすけ」について調べてみると、「助け」の他に「扶け」や「援け」「介け」「輔け」「佑け」と実に色々出て来る。
人間は、色んな目的で色んな場合に色んな感じで、「たすけ」て欲しいらしい。
「佑け」の佑の字の、左側から人を取ると「右け」になる。
これも「たすけ」であり、「言葉に出してたすけを導く」や「神のたすけ」という意味がある。
天からのメッセージや師の助言、神の御加護は、人の付かない「右け」になる。
と言うことは、
「お助けぇ~」
は、意味的には「お右けぇ~」なのかと、面白く眺めた。
反対に「左け」も又、「たすけ」である。
左は右と違い行動で補佐し、「たすけ」る動き。
右のたすけは天や師から授かる感じで何だか上寄り、左のたすけは下支えや補佐と何だか下寄りになっている。
右上から&左下からと言う、ちょっと傾いた都合のいい配置での支えを受けて、両側から挟んで貰って移動しようと言うなら、中々凝った注文である。
宮司を名乗る“これ”が、“たすける”を不思議な動きに感じるのは、助けようとして何かをすることがないから。
何かした結果として「助かりました!」「助かるわ~」とお言葉を頂くこともある。
だが、それは相手がその行いを「助け」と判定しただけで、する側にとっては特に意味を持たない。
「扶け」や「援け」等も同じことで、どんな類の「たすけ」も、求める気にも施す気にもならない。
あるのは「丁度の出番」と「役に立つ意志」と「機会への感謝」。
これだけでその場と瞬間が活かされ、弥栄に展開する。
そこには何の貸し借りも発生しない。
徳が積まれるかどうかもどうでもいい。
積んだ徳をまとめて良い運命を巡らそうと言うのなら、それはポイントを貯めてお得にしようとするのと変わらない。
徳で得をしようとする動きは古くから人々の間にあり、「得になるかも知れませんから徳を積みませんか?」的な雰囲気を匂わせて助けを乞うたり、逆に申し出る誘いも世間には多い。
そうしたお得なお徳集めキャンペーンに全く乗らないと、成すことの要不要は自然に分かって来る。
なので、そのまんまそれを実行している。
「こんなことして頂いていいんですか?!」
と、ビックリされる様なことをして、「そう言う流れなので」と申し上げるだけの時もある。
逆に、嘆き悲しみ絶望し息も絶え絶えみたいな苦しみを披露されても、指一本動かない時もある。
個としての都合が取れてしまうと、「やるべきか」「やらざるべきか」と言った揺れがない。
「ああしてやりたかった」「こうしてやりたかった」「本当はしたくないのに」等の揺れもない。
“たすける”“たすけられる”どちらでも、
そこには必ず、意図がある。
「弼け」も又、「たすけ」と読む。
意味は「道を外れないように付き添って補助する。補佐する」こと。
補佐の字に左が入っているので下から支える雰囲気もあるし、道を外れないようにとして、上から指導する雰囲気もある。
いいとこ取りで求める万能「たすけ」なのであれば、つくづく人間の欲には際限がない。
「人助けでたすかろう」とする善行積立も情動互助もなしに、シンプルに行動する時、
意図は絡まずしがらみもなく、支えがなくとも自然な追い風で進むのだ。
その場その場でどんな役でも。
(2021/11/1)