《世は情け?》
月曜記事で書いた諺「旅は道連れ世は情け」では、
旅に道連れが重要
世渡りに情が大切
みたいなことが言われている。
「旅は道連れ」が、旅のイメージについて不覚ならではのズレを起こしているのと同じに、「世は情け」にもズレがあると気づいた。
ここでの「世」とは、世界ではなく世間のことであるからこれに不思議はない。
ズレは情と、人間の言う「情け」の間に生じている。
漢字と言う興味深い存在についてじっくり説明する機会が未だ訪れないので、当宮の左側から又もちょいと借りて来る感じになるが、情の字を分解すると本来「温もり」の要素はないことが分かる。
セイ、又はジョウと音をあてるこの字は、
忄(こころ)+青(けがれなさ)
で出来ている。
この「けがれなさ」とは澄んだ水の青い様子。
「汚れなさ」であり、言ってみれば「気枯れなさ」でもある。
若さやけがれなさを示す青の字も分解すると、植物の芽生える姿を示す生+丼で出来ている。
丼とは井戸の中の清水であり、月はこのデザインを変えたものと言われている。
井戸の清水であるので、出せばとれたて、と言うか汲みたて。つまり新鮮。
混じり気のない純粋さを言っているだけで、そこに水温は関わっていない。
情に元々温もりがあるなら、「温情」と言う表現は存在しないはずである。
あるものをわざわざ足したりはしない。
情とは「けがれのないこころ」を表す。
不覚が見なしている“上辺の御機嫌コンパス”みたいなコロコロ変わるココロではない。
個人的都合を挟まない、同じシンの音で通じる、内なる神に達するその窓口としての心。
この奥底である心底から汲み出す、けがれのないもの。
それを基にした報せが真の「情報」であり、
それを意志の火で昇華する様が真の「情熱」であり、
何一つ勝手に捉まえずに全体の流れを味わうのが「風情」である。
人は自他問わず、こうあって欲しいと求めるものが叶わないと「情けない」と表現したりする。
本道から横道に逸れ、本質からもズレて変質状態となる。
内なるズレを自覚してそれに対し「情けない」となるなら分かる気もする。
だが、ズレの修正を情の本来である「けがれなさ」にではなく、立派さや温もりをあしらった「理想」に向けて行うなら、澄み渡ることはない。
相手に対し無情を責めて温情を要求する「情けない」にも、情の澄み渡りはない。
本来の情がない者が、これが情だと見なす温かい理想を人に求める状態。
そうして他に「情けない」と言う時、真の情について「我、情けなし」と自ら名乗る状態にもなっている。
当人にとっては思いもかけないことかも知れないが、的を射る結果となっている。
結局自他はないことの示しになっていて味わい深い。
情けと書かれる「なさけ」の本質は「無さ・気」、つまり無の気であり、それは虚空の気である。
そこに良かれで優しさや思いやりの風味を後から足して温もりを加えることで、澄み渡りをなくしてみたのが不覚体験としての情けチャレンジ。
人類は既に十分、色んな味つけを試し尽くした。
澄んだ真水にお好みの色や香りをつけて温める、フレーバー・ティーを作ることに夢中になって止め難くなっているのが「世は情け」を言う世界観。
本来必要な熱は、理想を壊さない程度に加減して後づけされる温もりとは異なる。
天意からの愛によって必要な熱が生じ、昇華はそれで成される。
かけたりかけられたりと情けを肌掛けみたいなあったか保温グッズとして楽しんで来た時代は過ぎ、全体一つの流れに沿って真の情を活かす時期が既に訪れている。
不覚社会では「情けは人の為ならず」として、親切な行いは自分にも巡り巡って帰って来るから結局はお得よみたいなことも言う。
情は人の都合の為にある訳ではない。
人が得をする為にある訳でもない。
そう言う意味でなら「情けは人の為ならず」とは、正にである。
得を求める情はない。
(2021/9/16)