《タマの上塗り》
意識と魂について、分かり易くその関係を示す例えってないだろうか。
そんな問いがふと浮かんだ所に、スコンと降りて来た言葉が、
“チョコボール”
「何だって?ん、あれ、確かにそうか」
となった。
人が頻繁に行う「これがこれであれがあれでそれがそれだから、これこれこうした結果こうなって」となる積み木みたいなものが不覚的思考。
積むだけでなく、崩したり並べ直したり出来る。
虚空や上からのメッセージは、そうした積んだり崩したりの速度やテンポを超えたり外したりしてやって来るので、違いは分かり易い。
速く、シンプルで、明確。
その内容に、端末であるこちらの気づきが追い付く方に余程時間がかかったりする。
その遅れる気づきであっても、意図や思惑をあちこちに残す人間の思考よりはずっと簡単で速い。
深まれば深まる程、澄めば澄む程、本当に軽くてサクサクする。
チョコボールに話を戻す。
ここで示されるチョコボールとは、ピーナツやアーモンド等、何かしらの木の実が中心部分に有り、その上をチョコが覆っている状態の菓子である。
チョコには様々なものを混ぜることが出来る。
果物の風味をつけることも出来るし、甘さを加えることも出来る。
キャラメルだとか、クリームだとか、色々なものを足したり重ねたり。
ホワイトチョコレートにしてみたり。
好きなもので、好きなだけ、好きな風にアレンジすることが出来る。
中心の木の実はそうは行かない。
木の実は自然に生って育つ過程とその結果として成る状態が決まっている。
一連の流れに足したり引いたり出来ないし、掛けたり割ったりも出来ない。
成長途中にちょい足しして、ピーナツの実の中に部分的にマカダミアナッツを作ることは出来ないのだ。
ピーナツがピーナツである様に、アーモンドがアーモンドである様に、意識も又、意識であり、意識でしかない。
何かしらヒーロー的なものに憧れる人々は「超意識!」とかやって、意識にハイパーな要素を加えたくなるかも知れない。
だが、超意識なるものがあるとすれば個を超えた全体の意識、空意識のことであり、空にとってはやはりそれは「単なる意識」なのだ。
それが特別すんごいものとかではないことは、明白である。
何故なら特別すんごいとは、比較対象となるすんごくないものが特別に感じられない位沢山あることが前提であり、空である自らしか存在しない中では、全く以て叶えようがない条件だからだ。
そこが分かっていると、
「超意識!覚醒!ジャーーーン!!」
にも、
「うんまぁ、超と言えるかもね。ま、それも意識だけどね」
となるだけである。
この様に格好つける気も必要もないのが、覚なる意識。
意識でさえも人とは違えてみたくなるのが不覚であり、それが魂だと人によっては更にやりたい放題になったりする。
さっきも申し上げた混ぜ込み製菓が出来るからだ。
だから魂の記憶とか御縁と言った触れ込みで、特殊な物語性を人生に加味することは人気があるのだろう。
その他大勢とは一味違う存在になりたい人にとってはたまらない旨味、魅力になるはずだし、その時々の好みによる都合のよいアレンジも可能。
こうして嚙み砕いてお伝えしているのは、以下を申し上げる為である。
魂を過剰に持ち上げて扱わないことだ。
特に、お気に入り想い出フォトブックみたいにイメージしているなら。
そこには好みの写真しかないし、好みのフレーバーしかない。
しかもそれは結構あやふやで、都度内容が入れ替わったりする。
チョコの部分にあれこれ混ぜては塗りする遊びを、人類は随分長く繰り返して来た。
混ざりようのないもの、変わりようのないものを、真っ直ぐに見つめる時期が既に来ている。
覚める程、味も深まる。
(2022/8/1)