《ショータイム?》
直接お目にかかる機会のある方から時折、発見や気づきのご報告を頂くことがある。
先日頂戴したご報告では、旅先で地元の方に突然ガイド役を買って出られ、行きたいと伝えた場所ではなくガイドが行きたい場所を巡る、割とトンチンカンな道中になった話を伺った。
お知らせ下さった方はその出来事から、良かれですることの不自然さについて学ばれて居られた。
それも勿論、とても大切な学びである。
そしてもう一つ、気づけるポイントとして、
良かれの親切心で行う地元案内の体裁をとっていても、
ガイドをした方の目的は自分ショーの開催であること
を、お伝えした。
この自分ショーに執心する人は世の中に結構居る。
その為、当宮記事をご覧になる方にもこれについてお知らせしておく必要を感じたので、本日書かせて頂くことにする。
ガイドをする自分を主役として、そこに意識のカメラを向けたショータイム。
ガイドを受ける旅人は、喜んだり感激する役割をして主役を引き立てるゲストである。
ゲストと言うからには丁重にもてなされそうだが、主役の魅力をとことん伝えようとするあまり、ガイドが選ぶ行先ツアーに勝手に内容を変更して連れ回す珍道中は、もてなしとは程遠い。
このショーは一体、誰に見せようと言うものなのか。
あまりに派手なスタイルであれば、通行人も見るかも知れないが、殆どの場合は観客も又自分である。
自分の、自分による、自分の為のショータイム。
ナルシストにも色んなタイプがあるが、自分ショーの興行を熱心に行う人々は主役である自らとそれ以外の人物に向ける注意の差が露骨なので分かり易い。
気に入った人に準主役の様な重要な役どころを与えたりもするが、兎にも角にも自分自分である。それは年を経るにつれて強化される。
人型生命体は本来、その時々でバージョンアップをして、好奇心を育てて意識を柔軟にし続けることが出来る。
だが、不覚をエンジョイする時代には「年を重ねるにつれて頑固になってみる」とか、「記憶力や判断力を曖昧にしてみる」と言う体験も必要だったのでそれをやり、その路線がすっかり致し方ないことみたいに定着した。
ただでさえ自分に夢中な人がこの致し方ないとする偏向で傾きを増した意識状態になると、自分ショーの開催は輪をかけて強引なものになる。
街頭でゲストを捕獲して、いきなり中継が始まったりするのである。
普段から中立な観察を意識する方は、何でも受け入れようと、この突発自分ショーにも根気よく付き合ったりする。
それも勿論構わないが、見られれば見られる程興奮して燃え上がるのがショーマンの常。
意識の傾きが増して、地にめり込む程没頭する。
根気良く付き合った結果が、そんな訳の分からない曲芸を見ただけの一幕になったりする。
お気づきの様に、ショータイムで目が覚めることはない。
彼らの要望に付き合ってもエゴを慰めることにしかならないので、それより彼らがどれだけ自分好きで、自信のある角度で映ることや名場面を作ることに執着しているかの観察に注力することをお勧めする。
不覚の欲望について俯瞰で知る学びの機会となる。
不覚の欲望なんて見てもしょうがない、などと言うことはない。
これまで人類が何を欲しがって来たのかについて知ることは大きな学びであり、覚めたての人にとっては古いノリに引き込まれずに観察する鍛錬の場にもなる。
当節、自分ショータイムは日に日に、本人以外にとっては割合に白けたものとして感じられる様になっている。
既に古い思考や行動パターンへの後押しが打ち切られているからである。
過去も未来も全て今の内に在るが、今の今、何処に向かって波が運ばれているかを観察し感じること、その流れに沿うことは常に必要。
それを果たしていれば、波の運びを無視した珍道中に行き当った時も、一緒になって揺れずに学ぶことが出来るのだ。
今来る波を感じよう。
(2022/7/18)