《まことこと》
動にどれだけ真のあるか、
それが果の味を決める。
前回記事の終わりに、この様に書いた。
その後の添書きで「次回に」ではなく「来週に」と書いたのは、真も含む「まこと」について、先に書かせて頂くことになったからである。
「誠意を見せろ!」
とは、不覚社会において「誠意」と言う飾りで隠した何かしら、大体の場合は金銭らしいがそうしたものを要求する場面に出て来る言い回し。
古いドラマの台詞みたいだが、調べてみると現在でもクレーマーの人々がその様に仰ることがあるそうだ。
ふと、気づいた。
「誠意を見せろ!」はあっても、
「真意を見せろ!」と言うのは聞いたことがない。
クレーマーにとって、矛先を向ける相手の真意はどうでも良いことが分かる。
訓読みにした時には同じ「まこと」の音を持つのに、人が「誠」には期待して「真」には求めないものって、一体何だろうか。
不覚の意識が誠実をイメージする時、「誠実な人柄」「誠実に対応」等、それは大分善に傾いている気がする。
だが、真実となると「不都合な真実」「残酷な真実」「真実一路」等、善悪どちらとも言えない感じになる。
誠意を見せろ、とはそちらの真意はどうであれこちらにとって善い対応をしなさいと言う要求なのかも知れない。
誠の字を分解してみると、
言(言動)+成(成す)
となり、物事を成す偽りのない真心や言動を表わしていると言う。
この「言」は、言葉だけでなく実際に行動することも意味する。
「偽りのない真心?と言うことは誠は真が奥に入っている、表の部分なのか」
と、首を傾げた。
アーモンドチョコだと、真がアーモンドで誠がチョコ。
「誠意を見せろ!」の使用法と使用目的を見るにつけ、何でか知らないが表の部分は自分の都合で傾けて構わない雰囲気になっているらしい。
我が田に水を引っ張ろうとする時点で、それは既に誠ではない。
だが、人は言動を歪めて使ったりも出来る。
「我田引水したい」気持ちには嘘偽りがないのさと言った屁理屈で化粧した偽誠が出回っても不思議はない。
それは結局、人を誠から遠ざけるが。
ところで「実」の字にも、「まこと」の読み方がある。
つまり誠実は、まことまことであり、
そして真実も、まことまことである
と言うことになる。
「おやまぁ、まことだらけになって来た。いっそどんだけあるのか調べるか」
と、「まこと」の音を持つ字を探してみたら、この三つの他にも允や孚、忱、信、衷、洵、恂、悃と言ったシンプルなものから、次第に画数が増えて眞、悾、款、款、亶、詢、愨、實、摯、諄、諒、諦…と、二十ばかり出て来た。
更に人名に使う字を「まこと」と読ませる場合だと、漢数字の一から始まって丹やら亮やら良やら精やら命やら。
普段「まこと」の音とは結び付けなさそうな漢字が盛り沢山となり、切りがない。
名前の漢字には「常用平易な文字を用いる」と法で定められているが、読み方に制限はない。
その為、名前に使用して構わない字であれば、何であれ「まこと」ちゃんにすることは出来るのだ。
そう言えば、彼の名前はどんな字なのだろうかと気になったが、調べても出て来なかった。
昭和期における有名なトリックスターの一人であるこの存在について、そう詳しく知っている訳ではないが、その破天荒さや支離滅裂さから、とても一字に定めることの出来ない「まこと」であろうと言うのは分かる。
言を成すの誠に対して、真は「本当に中身のある様」を表す字だと言う。分解すると
ヒ(匙)+鼎(かなえ、転じて器)
と、なる。
そこから「匙で中身をいっぱいにする。充実した。嘘のない」を意味するそうだが、この「器に物を満たす様子」の他に、「頭を下にした状態で倒れて死んだ人の姿」を表していると言う説もある。
食器と死体。
全く違う成り立ちである。
死者を「永遠不変の真実」の象徴にすると言うのは面白い発想だ。
人が死んでも変わらぬもの、人間存在を超えた所に真はあると言う話なら分かるが、不覚のままこの死人イメージを採用すると、さよならだけが人生だみたいな風に傾きかねない。
器と匙のセットの方はシンプルに、真の的を射ている。
但し、大事な所が逆。
「器に物を入れて満たしている」のではなく、「器から物を汲み出している」のが実際である。
何もない空間は虚空に通じる。
無である虚空から、有である万物を汲み出す。
無が有を、発生させる。
真の字にその様子が表れていると気づく時、意識は形のないはずの無に“触れる”ことが出来る。
まことは、「間・事」から生まれたと言う。
虚空から生まれ、空間に流動し点滅する万物。
真の字の、器と匙によって汲み出され、素直に表出し、世に成される言が、本来の誠である。
ことごとく、まことことなす、弥栄の世。
(2022/2/3)