《ねじねじ問答》

 

と言う表現について調べてみて、

 

“幸いとわざわい。

よいことと悪いこと。

また、めでたいことと縁起の悪いこと。”

 

と出て来た時に、この説明を眺めて「そう言えば、面白いな」となった。 

 

と言うのも、対比をさせてモノコトの差を出す言葉達の並びは多くの場合、不覚的に見てgood/badの順だからである。

  

吉凶

 

善悪

 

優劣

 

美醜

 

巧拙

 

強弱

 

賢愚

 

多寡

 

etc。

 

そこへ来ての、

 

禍福

 

「ふっかじゃないんだ」

 

一般的でないとしても「福禍」と逆にしたものだってあるのかも知れないと調べたが、辞書の中には見つからなかった

 

禍福と同じbad/goodの順となるものに「貧富」があるが、他にはあまり見かけない。中々の少数派である。

 

吉凶は(あざな)える縄の如しと、禍福は糾える縄の如しは、同じ意味となる。

 

とすれば同じ意味のものをわざわざ重ねたは、

 

糾った縄と縄を順序を違えて更によじってねじねじに。

 

随分と念の入った感じである。

 

「良いことも悪いことも、ずっとは続かない。

 

この世の幸と不幸は表裏をなすものだからね」

 

とはいかにも達観した風であるが、実際そうでもない。

 

「実際は良いも悪いもなく、只そうした評価基準を人間が都合によって定めただけ」

 

 

と言う所までは理解していないからである。

 

それを分かってしまえば、ねじねじの繰り返しが出来なくなり、縄を縒り合せて糾うことも、正しさを求めて糾弾することも出来なくなってしまうから、やりたくないのかも知れない。

 

」は、それ自体キュウと読み、紐をよじった様子を表す象形文字だそうだ。

 

意味は「縄をよりあわせる」「よじれる」「もつれる」。

 

“量子もつれ”と浮かび面白さも感じたが、丩でそもそも縒り合わす意味があるのに、そこに糸を加えた糾で、更に縄を成す。

 

本当に念には念を入れている感じで、もう途中から念入れるのが目的みたいになっている気もする。

 

 

そんな本末転倒な達観とは一体何であろうか。

 

丩ありき、そして糾ありきで達する観点とは、全てを解いた何処にも依らない中心ではなく、“何処かの高み”なのだろう。

 

何処にあるんだかは知らないが、そうしたねじねじの高みには「ずっとこの調子で繰り返しますよ」高をくくっている所がある。

 

ねじねじは未来永劫不滅のものではなく、不覚体験をし尽くすまでの仮初めのお約束である。

 

 

そもそも無から始まっておいて事の起こりに吉も凶もないもんだと、人型生命体真に理解し腑に落とす時、あらゆる機会体験祝福出来る様になる。

 

覚都合で曇らせていても、これだけ豊かで面白い物理次元なのだから、

 

至る所に人型生命体による祝福溢れる時、

どれ程面白く豊かに、そして美しく輝くだろうか。

 

その生まれ来る輝き意識を向け、体験一つ一つに集中するなら、お約束の縄ねじりへの未練は自然と薄まり消えて行くのである。

 

ねじねじ問答、

続けてみても

糸口なし。

(2021/12/2)