《たまたま巡り?》
分けても分けても分けられぬ。
分けた中でも行き来する。
記事の中でその様に書いた、魂と魄の関係。
魂と魄に加えて、更にはこれにも「たま」と言う読み方がある。
霊
陽気を魂、陰気を魄と、二つに分けたらしい霊。
魂は精神、魄は肉体と担当を分けて、それぞれは神霊であるともしている。
「てことは、つまり…」
全部を「たま」で置き換えると、前に記事の中で、
“かつて人間は、自らを形成する気に陰陽の二つがあり「陽気の霊は魂、陰気の霊は魄である」として、霊も二つに分けたと言う。
魂と魄の両「たましい」は、先週の記事で申し上げた通り「魂は精神」「魄は肉体」をつかさどる神霊として分けられてもいる。”
と書いたものは、
“かつて人間は、自らを形成する気に陰陽の二つがあり「陽気のたまはたま、陰気のたまはたまである」として、たまも二つに分けたと言う。
たまとたまの両「たましい」は、先週の記事で申し上げた通り「たまは精神」「たまは肉体」をつかさどる神たまとして分けられてもいる。”
となる。
「何だゃ、こりゃ」
となるのと同時に、よくもまぁ今の今までこの曖昧集落を見落としておけたもんだと、これまで意識が向かなかったことにも驚いた。
蓋を開けて見たら全部
「たまダヨ!」
であるのに、御をつけると御霊や御魂となり、結構いかついと言うか、重役感と言うか、巡り来る季節の中で都度おもてなしすることが要り様な雰囲気を醸し出している。
「えぇ~…だって、たまじゃんか…」
つるつるの丸いものにどうやって凄味や尊さを足せたのかと驚きつつ、「元は皆たま」なのは、たまたまなのだろうかと首を捻った。
人は偶然のことを「たまたま」と言ったり、稀なことを「たまに」と言ったりする。
大したタマだとか、そんなタマじゃないとか、鉄砲玉とか、人のことを表すのにたまを使ったりもする。
たまとは結構汎用性があるものだと気づき、あっとすぐさま腑に落ちた。
たまは、引きで見ると粒である。
粒々の点滅によって実現している物理次元。
何もかも粒。
粒を膨らました様なたまに、その何でもありな感じが同じ様に宿っても別に不思議はなかったのだ。
そうなると魂が多目的スペースみたいな使われ方をしているのも、それ程不思議なことではないのかも知れないなと頷いた。
貴賤、優劣、損得、勝敗、賢愚、etc。
どちらか一方に定まることが何一つない、何にも捉われない粒。
その風通しの良い自由さを、たまにも蘇らせる時期が来ている。
元はたまですけど?
(2022/6/20)