《それとこれとは?》
日本の外で響き続ける、激しい銃声の行き交う報せ。
それも、何となく人々の中で新鮮味が薄れて来た昨今。
今度は自国と言う意味では身近な、そして立場的には多くの人から遠い場所で鳴った銃声が、不覚社会を騒めかせた。
古い殻を脱ぐことを促し、様々な角度から意識を震わせる動きは、物理次元に継続して起き続けている。
後戻りすることなく、徹底的に。
飽きたり誤魔化したりしてなあなあにすることも、何も無かった風を装い古い時代の慣れた空気に戻すことも不可能である。
逃げ場はないのだ。
不覚社会を驚かせた事件に対しての「暴力では何も解決しない」「あってはならない」と言う、人としてごく真っ当なものとされるだろう意見。
その表明をそこかしこで見た。
同時に、それを言う人々の中に武器を使ったゲームや娯楽作品を好んでエンジョイする人も一定数居ることを確認もした。
同じ人物から、
「生きて欲しかった…」
のしんみり表明の後、程なくして
「トップガン最高!」
と言ったウキウキ表明が発生したりする。
現れては消えるこうした浮世の波を観察していて、「成る程ねぇ」となった。
「あの残酷な事件を起こした武器と、この格好いい武器を一緒にしないで。それとこれとは違います」
と、はっきり言う人は居なくとも、認識上で器用にそれとこれとを分けて過ごしている。
こうした区分を残していれば、どれだけ時が経っても覚めることはない。
それを改めて理解し頷いた。
勇ましさと残酷さって、背中合わせではないだろうか。
当たり前だがこう申し上げることで、
「だから悪いものは全部消しましょうね、優しく平和で誰も傷つけない善きものだけ残しましょうね」
と言う無理かつ傲慢な選別を勧めている訳では勿論ない。
嫌なものは排除するのではなく、必要なのは
人間には本来ありとあらゆる資質が備わっている
只、その折々で表れるものが違うだけである
この二つを、目を逸らさずに認めることなのだ。
残酷はある。
あなたの中にも。
それを無視していては、何処にも辿り着かない。
残酷は、他の資質と同じく情報としてあるだけで、多くの人にとりそれは激しく作動する機会を殆ど持たない。
単にそれだけのことだが、残酷さなど自身の内にないと思いたがる人々は、築き上げたセルフイメージへの執着や、残酷さが抑圧して来た分巨大な欲望で尚且つ本性だったらどうしようと言う恐怖で、押し隠している。
何か特定の面が本性になることはないのだ。
特定ならばそれはあくまで部分であるから。
本も、性も、枠を作ってそこに押し込めることは出来ない。
勇敢さや友情、信念を添えても武器が武器でなくなる日は来ない。
それとこれとの間に都合で線を引かない。
都合による線引きを取り払えば、そこに現れるのは
「元は同じだった!」
と言う、当たり前な気づきである。
それもこれも、空から空へ。
(2022/7/14)