《邪魔祝い》
秘すれば花とは、その方が奥ゆかしくて魅力的になると言うことではなく、
重要な情報は最後まで隠しておくことが戦略的に有効
そうした意味なのだと解説する資料を目にした。
秘することで求めた結果が花開く。
角度を変えて見れば、秘して隠しておかなければ、邪魔が入る危険があると言うこと。
「邪魔って、何だろう……あれっ、そう言えば面白いな」
と、気づいたことがある。
訪問時に使う、「お邪魔致します」と言う表現などから、
他者の領域に侵入すること
について、邪魔とする風習があるのは明らか。
ところがこの言葉を使う時、お邪魔する側は大抵笑顔ではないだろうか。
何なら、お出迎えする方も笑顔である。
「失礼致します」も似た雰囲気を持っているが、こちらは畏まって使う感じになるのが興味深い。
もしかしたら、招かれた場所に喜んで参上すると言う場面で、全く邪魔ではないと互いに理解していることを前提に、わざわざ邪魔と言ってみる
邪魔ジョーク
みたいなものがそこにはあるのだろうか。
最初に言いだしたのはどんな人物なのか、知りたい所だ。
すっかり定着して、多くの人にとっては使う時に違和感の発生しない、馴染んだ言い回しとなった「お邪魔します」。
この表現を観察していて、ポンと気づきが来た。
邪気や邪念、邪悪など、邪は嫌われる。
悪魔や魔物、魔女など、魔は怖れられる。
この両方をまとめて、日常的に軽い感じで、しかも笑顔でさりげなく用いること。
その役割で生まれた習慣なのだとすれば、これ程、粋な祝福があるだろうか。
お邪魔しますが広まる程に、少しずつ邪や魔のイメージから迫力が削がれ、影響が小さくなって来たのだとしたら、実にスマートな弥栄仕事だと言える。