《育む楽しさ》
寒さの中、各所で少しずつ春に向けての変化が始まっているのを感じる。
冷たい空気の中で、細い枝に点々と生まれた小さな芽が、ゆっくりと育っている姿に気づくことも増えた。
指先に乗るくらい小さく可愛らしい“確かさ”が、何百何千何万と冬の中で息をしている。
春を待って耐え忍ぶ時期としてではなく、今、ここで、二度と再び同じものが巡っては来ない、掛け替えのない瞬間を生きている。
その輝かしさを眺めていると、不覚社会に起こるどんな動きも、自然のサイクルの中で育まれていることに自ずと気づく。
育つこと。
昨日とは違っていること。
それ自体、歓びであり、楽しいものではないだろうか。
育む楽しさと言う時、
例えば親が子をとか、
教師が生徒をとか、
大人が子供をとか、
その逆とか。
どれであっても、誰かが別の誰かを育む感じで捉えられることが多い気がする。
だが、自らを観察して健やかに育むことも、大切な育みであり、実はそちらが先であるし、主となる。
健康を育み、その上で、分割意識と御神体との関係を育む。
それが出来ていない状態で、誰かを育もうとするのは不自然なことであるし、無理に進めようとすれば、育もうとする動きが犠牲や奉仕の色合いを帯びて来る。
犠牲や奉仕は、消耗に繋がる。
消耗すれば、当たり前に余裕はなくなる。
余裕がなければ、育む対象が望んだ通りのことをしなかった時に
「こんなにしてやったのに!」
とか
「恩知らず!」
と言う思いが出て来ても、不思議はない。
育もうとする時は、まず「これが自らだ」と認識している端末を育むことから始める必要がある。
十分に休み、十分に栄養を摂り、十分に行動し、体験を昇華する。
この流れが自然に循環する状態で他者と相対する時。
相手を育もうとせずとも、共に伸び栄えて行く。
独り立ちて、育む楽しさ。
(2025/2/24)