《熱なき光》
自在で均一な熱なき光に照らされることで、意識はどの様に変化するのか。
そのことは、熱なき光に触れることで起こる、御神体の変化が教えてくれる。
夜にスマホをご覧になるのはおやめなさいよと、お医者を始め各界の“賢者”が提唱するのをお聞きになった方もあるだろう。
御神体が休もうとしているタイミングで、いつでもどこでも24時間営業な光を目がキャッチすることは、脳や神経に
「まだまだ明るいよ!」
の、お知らせをすることになる。
勿論、世の中には様々な体験をする為に様々な特性を持つ御神体が居る。
夜の方が集中して活動出来て、その方が役割を果たせると言う場合もあるだろう。
申し上げるまでもなく、分割意識の自己満足に留まる内容ではなく、全体一つの流れに沿った実感のある役割である。
その様に御神体と分割意識の総意で役割を果たせている時と違い、片方が
「もう眠いよ~」
と、うとうとしかけている所に、もう片方がミラーボールを投げ込むような行いは、やはりおかしなことと言える。
スマホやパソコン、タブレットなど、光に情報がプラスされるものは、意識の中に「それについての考え」や「そこからの連想」などの動きを呼び起こす。
「それはそれとして寝ーようっと!」と、切り替えてスヤスヤ休息するには、世の多くの人はあまりにも意識の中に「己」を抱えている。
こうして、ずっと昼みたい、もしくはいつでも昼化出来る日々を過ごしていると、眠りは浅くなる。
眠りが浅くなると言うことは、覚めも浅くなる。
不覚のことを意識の眠りと表現することがあり、そこから知らず知らずのうちに、誰も寝てはならぬみたいな「眠り忌避症」になる人々も居る。
だがご存じの様に、ぐっすり眠ることとはっきり起きることは呼吸の様に不可分であり、それもまた存在として行う一つの点滅。
自在で均一な熱なき光は、良いものでも悪いものでもなく、全体一つの流れの中で生まれたことにも当然意味がある。
その気になればいつでも明るく出来る環境で、分割意識がどの道を選ぶのか。
その岐路となり、はっきりさせる役割を持っている。
我欲を満たす動きに走るのか、それとも御神体との和合を意識して、取り入れる明るさを決めるのか。
熱なき光で照らされる画面で、誰かや何かの炎上に騒いでいる多くの人々は、我がことではなくとも興奮の追体験をしている。
身を乗り出してチョッカイをかけなければ、火傷することもなく安全に、みんなが持ち寄った注目の光で、大注目と言うイルミネーションを作れる。
この遊びに夢中になっていると、ずっと意識が興奮したままとなり、そしてその刺激に慣れて来る。
慣れてしまえばもっと大きな興奮を浴びる機会を求めるようになり、そこに割く時間も増えて来る。
熱がない均一な光は、この様にして生活に浸み込み易く、自覚のない意識は知らぬ間に、より多くの光を求める様に変化する。
熱なき光との付き合い方は各人、意識がどの様な状態にあるかで全く異なる。
明るさも、適材適所。
(2025/1/30)
1月のふろくはお休みし、2月に2つご用意致します。