《全なる世界》
“成そうとせずとも最初から完全”
前回記事にて、そう申し上げた。
目が覚めると、この事実を理解する。
「こんなに争いが絶えないのに、どこが完全なのですか」
「苦しんでいる人や、泣いている人が居るのに何が完全ですか」
「完全なら、全ての人が豊かなのでは?」
こうしたことを、当宮へお越しの皆様が今更思われはしないだろうが、一応申し上げてみる。
では、虚空はそもそも何をしたくてこの物理次元を生み成したのか。
ありとあらゆる種類の、体験である。
個別に分かれている感覚がなければ、自と他に意識が分かれて居なければ、成し得なかったことがこの世にどれだけあるか。
ありとあらゆる種類の体験なので、そこには苦しみや悲しみも勿論含まれる。
大元の虚空そのままの状態だと、そこにあるのは静かな至福と歓びのみ。
ウキウキしたり、興奮発奮したり、狂喜乱舞したり、感涙したり。
悲しんだり、苦しんだり、不安になったり、妬いたり、落ち込んだり。
そうした細かい動きをいちいち行うには、人型生命体と言うちっちゃな器が沢山要るのだ。
体験の種類を増やして行くにあたって、不覚の意識達に提供されたのが「コレジャナイ」プログラム。
これじゃなければ、じゃあどれだ、と言う訳で新しい体験に人が踏み出す流れを生む。
ああでもないこうでもないと言い続け、勝手に思い描いた理想を完成させようと藻掻き続ける人類の歴史も、その矛盾や一見しての不完全さも含めて、実は全て完全な運びの一部である。
完全な物理次元は、日々、毎瞬、変化を続けている。
人間は何でも擬人化するのが好きなので、物理次元にも人間的努力の痕跡を求めたがる。
駄目なものが、良く出来るものに変わる。
その達成感がもたらす興奮を期待して、現状の世界を駄目なもの扱いするなら、過去からの申し送りとして、駄目な世界のビジョンが又一つ追加で生まれる。
そうやって駄目扱いを、手間暇かけて一つ一つ重ねるのも、自由。
元々、完全だったと気づいて、新しく生まれ続ける、全なる世界を日々中立に観察するのもまた、自由となる。
人成さずとも、完了する全。
(2025/4/17)