《光と神秘》
かつて人類にとって明るさは、自分達の手による調節が難しいものだった。
現代では人工の明るさは世の中の隅々まで、昼夜を問わず届くことが可能になっている。
「そんなの都市部だけでしょ」
と思う人々のカバンや服のポケットにも、いつでも光源になるスマートフォンは入っている。
地球に暮らす全員とは言わないが、多くの人にとって暗がりの印象は、
「その気になれば消せるもの」
に変わったのだ。
このことは人類の意識に、どの様な変化をもたらしたか。
太陽、炎、白熱電球。
こうしたものが明るさをもたらす光の主流だった頃、そこには熱が付き物だった。
この熱に関して、人類が健やかに過ごせる“ストライクゾーン”は限定的。
太陽にも焚火にも、何の悪意もありはしないものの(勿論、善意もないが)、恩恵と危険が隣り合わせになった存在として、人間に受け取られて来た。
人が「神」に対してする扱いも、これに同じ。
日の神も火の神も、各種神話に数多存在するので、これに何の不思議もない。
日月であれ、火であれ水であれ、自分達で操作しきれないものに対して、人間は恭しく畏れながら、同時に恐怖する。
ご承知の通り、太陽の光は生活に欠かせないものである一方で、時により干ばつや病を起こしたりする。
炎も、体を温めたり食事を調理するのに役立つ一方で、そばに寄るものに分け隔てなく引火する為、火事や火傷を起こしたりする。
白熱電球は光がもたらすものの中で明るさに狙いを絞って、恩恵や危険の影響をてのひらサイズにまで落とし込んだものである。
やがて白熱と交代する様に、熱を伴わない光が登場する。
冷光とも呼ばれる、ルミネセンスと言う現象によって生じる光が照明の主流になることは、そこに暮らす人の意識に大きな変化をもたらす。
光は畏怖の対象ではなく、実用や娯楽の為に使う安全な道具になるのだ。
LEDの普及は光からも、光の受け皿としての灯りからも、神秘の要素をなくすことに繋がった様に感じる。
光や灯りに神秘がなくなれば、暗がりの神秘もなくなる。
立場が持つ力を利用して闇から闇に葬って来たつもりのことも、あっけなく「明るみに」出る。
権力や財力と人が呼び、利用して来た力も、明るさの調節に関してはもう有効ではなくなって来ている。
自分都合で作った暗がりに浪漫とか、美的な雰囲気まで纏わせられる時代はとうに過ぎたのだ。
自在で均一な熱なき光に照らされることで、意識はどの様に変化するのか。
それについては次回に書かせて頂くことにする。
全て、一なる運び。
(2025/1/27)