《俗なる

 

前回の最後に、明るさも、適材適所と申し上げた。

 

眼が冴えるなきとは、起床から日中にかけてをメインにして付き合うと、生活に馴染む方が多いだろう。

 

日昇日没は、そのおおまかな開始と終了を知らせる目安となる。

 

と言っても、現代社会の生活では、残業、夜勤、勉強、趣味、娯楽etc、なきの出番は人によって何時でも何処でも幾らでも出て来る。

 

お日様など大いなるものに主権を委ねることが出来ないので、それぞれの意志決定必要となる。

 

こう言うかたちでも、人類は虚空から自立を促されているのだ。

 

 

聖なるなどと言う様に、は何かと聖性と結び付けられて来た。

 

暗闇の中にともる灯りは安心をもたらし、人はそれを聖なる輝きと感じたりする。

 

このこと自体は別に誤りではない

 

万物に聖性は宿るからである。

 

全体一つの中で、に聖性があってもおかしくはない

 

 

おかしくなるのは、“は”聖のみ善のみ等、限定した場合。

 

何故が、聖を代表するものみたいになるのか。

 

ずっと不思議だったのだが、なきの広がりとそれによる影響を観察していて、この明るさが聖性に結びつかないものであることに気づいた

 

むしろ自在に広がり日々に溶け込み、好き勝手に騒ぐ元になり、何と言うかこう、逆。

 

そこまで気づいて、ふと 

 

「……あ!俗なるか!!」

 

 

と、ハッとなった。

 

そして心底から納得し満足した

 

聖なる光があるのなら、

 

じゃない方もあるはずだ。

 

 

なのに偏った状態でしか注目されていないことが、どうにも腑に落ちなかったのだ。

 

実際、現代不覚社会俗なる溢れ返っている

 

自体には良い悪いないし、聖俗どちらかだけに限られている訳でもない

 

そのことに、俗なるは改めて気づかせてくれたのだ。

 

限定不要の時代。

(2025/2/3)